―――ふいに静かな黒夜に現れる、美しい魔性の月を知っているか?


それは魔物の様でいて、まるで神の様な魅力を持っている…
もしも、それを見てしまったとしたら?

それは………







<暗―月下狼>








ぎしり、と古い床板が軋む。
静かに足を踏み出したつもりだったが、既に遅かった。



「誰だ」



「……私です」
「私、という奴は知らん」
「声さえも忘れてしまわれたのですか?」
「だから、俺はそんな奴には会った事などない」
「…頑固でいらっしゃる」

もう足を忍び込ませる必要などない。
すいすいと足を床に滑らせるように、彼の傍へ寄る。
彼はその事に気付いているだろうが、何も反応は見受けられなかった。
そして、こうした方が同時に床の音が立たないとも理解した。
今となってはもう必要のない事だが。


「もう一度聞く。お前は、誰だ」
「趙雲ですよ、今日共に闘いました、お忘れですか」
そっと、耳越しに言葉を返す。
その時に、月の光を受けて光を放つ姿が手に触れた。
「……さぁ、な」
「嘘臭いですね、まぁそうお堅く構えずに」


初めにその瞳に移した彼の姿は、まるで白銀の狼の様に見てとれた。
こんな戦も始まらぬ穏やかな深夜でさえ、兜を取ろうともせず。

「何か用か」

そう、言われるのは冷酷な口調故に、
「いいえ、特にはありませんが」
素直に、そう答えてしまった。

「ならば、去れ」
「どうして」
「用がないのだろう」

「…用があれば居ても宜しいのですか?」
「諄い」
「酷いですね……じゃあ」


言葉を切り、再び彼の耳元に囁いた。

「貴方に会いにきた、という用件ではいけませんか?」

「…戯言を」
そっけなく期待も消されたその答えに、そうかもしれませんね、と趙雲は笑う。

「貴方は、軍では猛将と呼ばれているようですね」
「だとしたら」
「一度、手合わせ願いたいものです」
「断る」
「何故」
「お前の様に馴れ馴れしくしてくる奴は、嫌いだ」
「そうですか、残念です」

本当に理想が高いのか、はたまた我儘にも近い嫌悪感であったのか。
同時に、彼は微かに振り向きざまに、追い打ちを掛けるかの如く言葉を発した。


「目障りだ、消えろ」



「……!」


さっ、と暗黒の闇の中、掠める様に光を宿した瞳。
本当に、紛う事無き気高き狼の如く。
はたまた、黒き闇に眠れる百虎の化身であろうか。





……これ程までに美しくも、冷たさを兼ね備えたものを、私は知らない。














捕まってしまった。

その双眸に触れたのは恐らく私の想像、いやそんな期待よりも、遥かに微塵なものであったろう。
それでも、もう抜け出す事は出来なくなってしまった、と思う。

しかも、その事に後悔するのではなく、その事実を享受した方が自身にとっては
一番正しいのか、と思えてくる。
元々、正直な信念を己の心身に携えているつもりなのだから。




「……彼は将軍として、多くの人の上に立つ者としては、相当お若い」


諸葛亮殿からは、そう、聞いた。


「だが、その双眸に捕まった者は…酷く心を奪われ、手を伸ばしてしまう」



憐れみではない、仲間意識が働いた訳でもない。
衝動的に、見入ってしまったのだ。
理由に出来る事は、それ以外に無かった。

そして、そうやって幾人もの敵将が、討たれた事も聞かされていた。
酷く訳の分からぬ畏怖を感じるその姿に、紛れ込む妖美な風格。
不思議と恐ろしさを感じたのは初めだけで、その後は全く別の感情がじわりじわりと湧き上がってきていた。


「何故貴方はそんな目をなさるのだ」

「………」

「一体何処のお生まれなのやら。……まぁ、それは分からなくとも、この地のお生まれではないでしょう」
「……煩い」

「その様な、犀利の如き目は――」



「黙れ」



しなやかに、銀の化身が風を吹き付けてきた。
今度は先程の瞳に似た、鋭利な刃物が首筋に突き立てられた。

冷や汗も出なかった。
ただ、吹き付けられてきた一瞬の峻烈な風が、さらりと事切れた。


「…殺す気でいらっしゃいますか?」
「これ以上、その減らず口を叩く気であるならな」
凍て付く様な、鋭利な光灯す瞳が、その言葉が本気である事を示している。


「別に、貴方を侮辱したいのではない」


「黙れと言った筈だ」
「…では?」

「殺す」

そう言い放った言葉は、酷く冷淡さを失わない。
先程から付きつけられている刃物が、くいっと首筋に食い込み始めた。
それでも、不思議と恐ろしさは感じなかった。
だから淡々と、その口を滑らす。


「貴方の様な方にはお会いした事がない」

「だから何だ」

「だからこそ、私は貴方に惹かれてきた」

「それはおちょくっているのか」

「逆です」

「………」




すると、彼は暫くして無表情のまま、刃物を下ろした。

「…殺さないのですか?」

「…殺す気も起きん、気分が悪くなる」
そう言って、どかりと再び腰を下ろした。
その声は、先程よりも軽く感じられる。
同時に、冷たい殺気も、だ。


「…それはお隣を頂戴しても宜しいと取っていいのですか?」


「……ふざけるな」
ぎろり、と再び鋭い双眸に睨まれた。
その時でさえも、美しい、と考えてしまった。


「……次に近付いてくるようなら、殺すぞ」


「これはまた物騒だ……」
趙雲はそう言って、微笑を浮かべる事しか、今は出来なかった。











―――ふいに静かな黒夜に現れる、美しい魔性の月を知っているか?


それは魔物の様でいて、まるで神の様な魅力を持っている…
もしも、それを見てしまったとしたら?

それは………最後に、待つものがある。




それは――――陥落と、幻だ。




目を覆え、そしてもう一度だけ、足元を見直せ。



影が揺らめく兆しを見てはならない。

見てしまえば最後、お前は堕ちる。



見果てぬ漆黒の夜に、何処までも。

お前が望まずとも、いつかは包まれる事になるだろう。












もう逃れられない。



明暗と言う名の、その中に埋もれた一つの兆し。
月に御身を映し出し、醸し出されるのは幻想か、現象か。
いずれにせよ、私は結局それらが具現化される事を望んでしまったのだ。

その先が誤って我が身に死を導くものだと知っても、最早留める事など出来ぬのだ。
全ては、出逢うべきではなかったのか。



それでも、今宵も私は生と死の境で片方に揺れるのだろう。








End


実は趙馬話二回目…なかなか性格が定まらないものですなぁ。
趙雲は基本冷静、(一面は変態ォィ)、馬超は冷淡、(一部天然)な感じが私の中ではあるのですが…
とりあえず趙雲が馬超に初めて(?)合間見えて一目惚れの方向で←



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